リハーサルしてて30年、40年やってきた曲を演奏していても
「ああ、しまった。あの音をレコードに入れていたら、
もっといいレコードになったのに!」と思う時があるんだ。
曲って奴はは演奏すればするほど成長するんだ。
リハーサルしてて30年、40年やってきた曲を演奏していても
「ああ、しまった。あの音をレコードに入れていたら、
もっといいレコードになったのに!」と思う時があるんだ。
曲って奴はは演奏すればするほど成長するんだ。
僕の作曲スタイルは、ブルースのシンプルさから多くを学んでいる。
ブルースの言語はほとんど会話のように自然で、
だから常にシンプルであることを心がけてる。
歌詞のタイトルから生まれることもあれば、
コードから歌が生まれることもある。
きっかけは本当にさまざまだけどね。
ピーター・グリーンが去る前から
ミック・テイラーの演奏は気になっていたんだ。
ピーターが去って、雑誌にギタリスト募集の広告を出したんだけど、
運良くミックが応募してきてくれてね。
彼のプレイと実力は既に知っていたから
オーディションをする必要なんてなかったよ
ピーター・グリーンはまさにカリスマで、
あらゆるものを引き出して演奏してたよ。
なぜあんな音が出せるのかわからない。
ソウルフルで美しく、そしてまた、あの音だ。
当時はPAを使わない時代だったから
ステージから聞こえてくる音は、
とても美しくバランスが取れてたんだ
トーン探しなんて、終わりのない旅みたいなもんだ。
でもちゃんと自分にハマるサウンドはどこかに必ずあるよ。
大事なのは、プリアンプを蹴り飛ばして
ドライブさせ吠えさせることさ。
とにかくアンプに挿してツマミを回せるところまで回して、
思いっきりかき鳴らす。それに尽きるな。
俺の従兄弟が教えてくれたんだ。
サニーボーイがヘレナに戻ってきているって。
イングランドから戻ってきたって話だぜってね。
それで通りを歩いているサニーボーイを見かけたんだ。
すごいファッションだったぜ。
背広の右半分と左半分がグレイで残りは黒だ。
スティーヴ・クロッパー(2025年12月3日 死去)は、
俺が音楽を聴き、学ぶ上で欠かせない存在だった。
彼は曲の感情に寄り添い、俺があらゆるギタリストを
評価する上で基準となる黄金の規範であった。
彼のプレイには本当に心を動かされたよ。
俺が汗水流して稼いだお金で初めて買ったアルバムであり、
音楽における最初の愛でもあるオーティス・レディングの
『Otis Blue』において、スティーヴは繊細でありながら
強靭なバンドメンバーだった。
今でもそのアルバムは手元にある。
スティーヴ・クロッパー、ダック・ダン、アル・ジャクソン、
そしてブッカー・T・ジョーンズ
“A Change Is Gonna Come” の中核を成すメンバーが作り上げた
クライマックスは涙が出るほど感動的で、
バンドはオーティスと共に聴く人の心を
揺さぶるような演奏をしていた。
スティーヴは、その感情の高まりにおいて
非常に大きな役割を果たしており、まさにここぞという場所で、
まさに的確なフレーズを弾いている。
ときにはコードを、ときにはリードを。
彼はとても、とても抑制が利いていて、
必要とされる時以外は派手さや非凡さは一切見せなかった
“Rock Me Baby” のように、信じられないほどの
グルーヴを持つ曲こそ、その力が発揮されるんだ。
そしてソロで本領を発揮する時、スティーヴの演奏は、一音一音に意味がある。
彼とは何度か一緒に仕事をする幸運に恵まれた。
最後の共演は2021年の彼のラスト・ソロ・アルバム『Fire It Up』だった。
俺たちは一緒に“She's So Fine”という曲を作った。
彼がいないのは本当に寂しいが、音楽への彼の貢献は、
これからもずっと記憶され、称えられ続けるだろう。
店の裏手から木箱の上に立ち演奏を見ていたよ。
でも誰かが突然木箱を奪ったから俺はウルフの頭の上に落ちた。
彼は俺に椅子を用意してくれたよ。
その上俺を家に送り母親に「叱らないでくれ」と言ってくれた。
「いつか彼が必要になるかもしれん」
これが中々わからないんだな。
お店にいって好きなように鳴らして試奏するだけじゃなく、
それをギグに持っていって客が入っているところで
弾いてみないとだめなんだ。
本番と同じようにお客がいないとだめだ。
そうしないと本当のチェックはできないね
本当に役に立ったのは
様々な人とサイドマンとして一緒に仕事をしたことだ
彼らジャズマンから古いスタンダード曲の演奏方法を学び
そして彼らにブルースの演奏方法を教えた
ジャズもブルースも一緒に演奏することで
広い範囲をカバーできるようになったんだ
ジェフ・ベックは一切の妥協を許さなかった。
彼は優れたギタリストの中でも傑出していて、
成層圏の彼方、彼だけの領域にいた。
ロッド・スチュワートとやった“Shapes of Things”を聴いてみてほしい。
信じられないだろう? あの録音のソロは、間違いなく度肝を抜かれるはず。
彼はギター界の圧倒的な怪物だった。
同じ時期に彼がやった“Tallyman”のB面曲も聴いてみてほしい。
聴けば、俺が何を言っているのか分かるはずだ。
言葉では表現できない、
もう本当に腹の底から揺さぶられるほど凄まじかった。
2002年、ジェフはロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで
数曲一緒にやろうと俺を招いてくれた。
彼と同じステージに立つのは、この上なく刺激的な経験で、
一生忘れられないものになった。
2018年には、ジェフ、アン・ウィルソン、デボラ・ボーナムとツアーをした。
ジェフと俺は交互にトリを務めて、ある夜は彼がライヴを締めくくり、
次の夜は俺が自分のソロ・バンドで締めた。
彼がトリの夜、妻のシンシアとステージ袖で
ジェフの演奏を聴くのは、まるで夢のようだった。
本当に息をのむほど素晴らしかったよ。
あの音はわたしの頭のなかにある
彼がやった単音弾きのメロディはとても素晴らしく
彼はただただすごい
そして Dark Was the Night こそレコードと呼べるのだ
あのフレーズを今日誰にでもいいから投げかけるがいい
誰の心にも響くんだ
"初めて「Pearly Gates」を弾いた時"
ああ覚えてるさ、町外れの牧場の片隅に
眠っていたのを引っ張り出してきたんだ
ただならぬ存在感を感じたよ
見た目はただのレスポールだが
強い魂が宿っているような感じがした
正に一目惚れだったね
そして一目惚れはずっと続くものだよ
俺はほんのガキだったけど好きでたまらなかったからね
いつも彼ら(ミシシッピ・シークスやパットンら)が
近所に来たときには駆けつけたもんさ
歩いたり、荷馬車に乗せてもらったり、
群れからラバを盗んだりして辿り着いたんだ
ストリート ハウスパーティー バーでプレイしながら
若いうちにどんどん上達していったよ
そして20歳近くになってようやく
デトロイトに流れ着いたんだ
そこでずっと遊んでいて
21歳になったらバーで演奏できるようになった
そして 街の噂になったんだ
面白い事をするのと音楽とに何のへだても無かったなぁ
「朝起きたら女が居ない、どうしよう」といった
地味な内容を唄いつつ笑い飛ばす
それを聞いた人も「俺もそうだがどうした」とか
云いながらエンタテイメントとして楽しむ
なんか良いじゃないですか
母親は葬儀社で働いていた
毎日往復で12キロもの距離を歩き
週に8ドルの給料をもらっていたんだ
買ってもらったギターは安物だが新品で
すっかり夢中になり曲を作っていたよ
こいつは最高だと思ったよ
鋤を担いでいる時も 綿を摘んでいる時も
おじさんのきれいな声が聞こえた
たいていはお日さまが空高くのぼっているだの
嵐の雲が集まってきただの 長く辛い一日だっただの
仕事が終わった後のメシがどれほどうまいかだの
そんな歌だった
とにかくレコードを聴き続けることだね
例えばクラプトンは本当に素晴らしいけど
それを学びたいときは 口から声を出して
それをギターでコピーするんだ
スキャットするみたいな感じでね
口で歌えるようになってから
それをギターで演奏してみるんだ
比較的ソフィスティケイトされ
白人の影響を受けているそういった点に
イースタンブルースがカントリーブルースとしては
普通より少しばかり 社会的に苦痛が
少ないものである ということが示されている
イースタンのブルースマンは共同体から
自分を切り離す必要をそれほど感じていない
誰がそんなこと言うんだい?
ブルースをやるのに不幸である必要はないよ(笑)
私は幸せな時もあれば、そうじゃない時もある
でもそんなこと関係ないね
ブルースは私の生活そのものなんだから
スタジオに入る前 私は曲を書いたことなんか一度もなかった
それで何曲かで同じような歌詞になっていたりするんだ
プロデューサーというクレジットがあることさえ知らなかったよ
とにかくそこへ行って歌い テープが回る
何だろうが録音したものが作品として出ていたわけさ
だからアルバートコリンズのような派手なギターを
売り物にする人がロックファンにも知られ
世界的な人気を得る一方で
ボーカルひと筋のボビーブランドなどは
南部を中心とした黒人のコミュニティでは大スターだが
それ以外で大きな人気 知名度を得ることがない
いつだって自分はミュージシャンなんだって思ってたさ
クラークスディルでやっていた仕事やその他諸々あったけど
こんなのはただ一時的なものだ
もしその時に俺がいいミュージシャンじゃなかったにせよ
遅かれ早かれ なってやるって思ってたんだ
メリーゴールドの住人たちの証言によれば
パットンは1924年から30年にかけ
その土地に住んでいたというが
この時期ドッカリープランテーションで
彼に会ったミュージシャンもいた
多分彼は色んな女たちと色んな土地に住んでいたか
もしくはどこに落ち着くこともなかったのだろう
ブルース衝動 つまるところアフロアメリカンの音楽伝統は
かなり幅広い音楽的表現のなかに保ちうるということをジャズは証明した
ビッグバンドジャズが示したのは、ブルースというものが
アメリカ特有の表現として存在しうる
また商業的にも使いみちがあるということだった
フレディ・キング、B.B.キングやアルバート・キング、どれも好き
彼らのスタイルを学び マディウォーターズやバディガイの曲を練習したの
本当にのめり込んでアミリ・バラカの『Blues People』という本まで買ったわ
自分のルーツがここにあると思ったからよ
私は相変わらずジミー・リードに夢中で
常にシーブリーズで聴くアルバムを2,3枚持っていた
私にとっては記憶に残る天才 偉大なミュージシャンだった
おそらくあまりに完成度が高かったせいで
生存中は筋金入りのブルースファンにも
正当に評価されなかった
キング牧師が暗殺された時
スタックスには黒人も白人もいた
暴動の時はアイザックたちが白人メンバーに付き添って
スタックスに出入りした
白人は襲撃される可能性があったからね
「こいつらは仲間だから手を出すな」と頼んでたよ
ストラトはもうひとつの腕で 僕の一部なんだ
ギターという感覚は全くない
声を再現する道具なんだ
レスポールはギターのように感じられるけど
他人と同じような演奏になってしまう
ストラトは瞬時に自分のものになる
結合したというか 僕に溶け込んだというか
そんな感じだ
僕の作曲スタイルは ブルースのシンプルさから多くを学んでいる
ブルースの言語はほとんど会話のように自然で
だから常にシンプルであることを心がけてる
歌詞のタイトルから生まれることもあれば
コードから歌が生まれることもある
きっかけは本当にさまざまだけどね
『レイジング・ブル』(1980年)でスコセッシと仕事を始め
それ以来、彼の映画のほとんどで音楽を担当してきた
毎回 "大変だ、私にできるだろうか "とプレッシャーを感じるよ
毎回 毎回 でももちろん彼との仕事は大好きだ
既存の曲を作り替え 別の歌詞をつけたりするのが
ブルースの伝統の中での曲を作る ということだった
そうした曲作りについての考え方は
他の様々な民族音楽と同様に時が経つにつれ
近代的な音楽ビジネスの著作権という考え方と衝突し
大きな改変を迫られる
シカゴに出て来てマディを探してたら
彼の方がから俺に「お前がコットンか?」ときいてきたので
「そうだ」と答えたら、「俺がマディだ」
でも俺はずっとアーカンソーに住んでたから
彼の顔を知らなかったし 言ってやったよ
「俺がジーザスクライストだ!」(笑)
エレキギターを手にしてから
リフやソロを学ぶことが大事なことが分かったの
ヘンドリックスやクラプトン
そしてもっとモダンで有名なギタリストたちにも
夢中になったんだけど
結局その多くのリフはブルース由来だと気づいて
だから逆にさかのぼって勉強したのよ
北海道の大谷会館でライブやったんですよ
スリーピージョン・エステスと一緒に回った
スリーピーが最後終わって立ってまだ若い奴が何人かね
ライブ終わっても席立たない 呆然として
それでね物凄いものを感じた
自分らは違うから日本語でやろうと